テーモーとカンチョー(道玄坂病院4F整形外科病棟物語①)

「おはよーございます。おはよーございます。お元気ですか?ムスコさん,お元気ですか?」
坪山さんのいつもの朝の挨拶回りがはじまった。ここは渋谷の駅に程近い道玄坂病院(仮称)4階の整形外科病棟の大部屋。

今から約30年前の話。私は当時大学3年生。2年生が終った春休み,志賀高原に友人とスキーに行き,寺子屋から一の瀬ファミリーに戻る林間コースでスピードを出しすぎ,制御を失ったまま木に激突し,右足下腿部を複雑骨折した。木にぶつかったときにスキーブーツの中で骨が折れたと思う。真正面から飛び蹴りするような格好でぶつかったため,バインディングが外れず,スキーがついたままコース右側の崖に転落した。スキーの先が深雪に突っ込み,体はお構いなしに転げ落ちていった。そのため足がねじれ,折れた骨が外に出た。激痛が走った。

2時間近くかけて救出され,スノーボートで診療所へ,応急処置でギプスを巻かれ,そのまま友人に付き添われ,タクシーで長野に出て,そこから特急に乗って上野駅へ。上野駅で家族にバトンタッチされ,車でとりあえず中野の自宅に担ぎ込まれた。翌日,父のコネでスキー骨折の治療を得意とするというこの道玄坂病院に搬送された。

4階が整形外科の病棟だ。「整形」が付かない,ただの「外科」というのは,要するに,おなか,胸,頭などを切る手術をする。従って,患者も重篤な場合が多く。生死の境をさまよっている人が少なからずいる。
ところが,整形外科は,基本的には内臓と関係ない怪我,それからヘルニア(椎間板ヘルニア)などが対象だ。それ以外の部分はいたって健康。生死に絡むこともなく,病院側としても,4階などという縁起でもない数字を気軽にあてがえるのである。

病棟は個室と4-6人の相部屋。そして6人部屋が中央の通路でつながり,合計24名ほどが収容できる大部屋からなっていた。
ヘルニア患者が3-4割。残りはけが人だ。それも足が多い。手の怪我は入院の必要がない場合が多いせいだろう。足の骨折では,オートバイ事故が多い。そして季節柄,スキーの骨折も多かった。

勢い,若者が集まってくる。それも,いたって健康。毎朝ムスコさんがお元気な連中ばかりである。

病棟の廊下を,車椅子,松葉杖など,それぞれの歩行器具を武器に,パジャマ姿でつるんで歩き回っていた。共通の話題といえば,やっぱり女の子のことだ。そして共通の女性という意味では看護婦さん(当時の呼び方なのでここではこう呼びます)が,俎上に上がる。今日の準夜は?夜勤は?だとしたら明朝の検温は誰?そういったことが,3度の飯より大切だった。
消灯後は,看護婦さんの巡回の隙を狙って,誰かのベッドに集まり,ヒソヒソ話である。社会人のあっちの体験談を興味シンシンで聞いたりした。高校生も興奮して聞いていた。

母は,パジャマの上にはおる上着として,どういうわけか,誰かからもらった火消しの半纏を持ってきた。その半纏に「組頭」と書いてあった。そのため,私は,高校生達から「かしら」と呼ばれるようになっていた。
しかし,このワルガキ軍団の本当のかしらは,私より2歳ぐらい年上の大学生でバイトに精出す半分社会人。やはりスキーで骨折した人,四角い顔に,なれなれしい笑顔の絶えない,おもしろい人だった。この人はみんなから「センパイ」と呼ばれていた。怪我も,あっちの方の経験も,すべてすごいセンパイだった。
それ以外に,社会人では,バイク事故の通称マキさんとノロさん。高校生では,バイクで事故ったカワちゃん。転落事故のヤマちゃんがいた。ヤマちゃんは,入院生活が長く,医療のことには,かなり詳しく,会話の中に専門用語がポンポンでてくる。

ワルガキ軍団。暇をもてあましているから,新入りをからかうのなんていうのは,娯楽の一環であった。

あるとき,沢井さんという25歳ぐらいの人が入院してきた。スキーで足を折ったらしい。なんでも準指の検定中,ジャンプの着地時に折れたそうだ。新婚ほやほやで,かわいらしい奥さんに付き添われて,ワルガキの巣窟に入ってきた。

センパイ:「沢井さん,スキーで折ったんだって?」
カシラ(私):「すごいなー,準指のテストってことは,今1級でしょ?うまいんだー」

などといって近づいていく。
ヤマ:「傷はない?そうか,複雑骨折(開放骨折のこと。外傷を伴う骨折)じゃないんだね。ってことは,すぐにでもオペだよ。」
カシラ:「そうそう,オレなんか,複雑骨折だったから,外傷が治るまで,2週間近く手術できなかったからね。」

折れ方によっては,単にギブスを巻いて着くのを待つという場合もあるが,やがて,回診があり,沢井さんは2-3日後に手術と決まった。

さて,ワルガキ軍団の出番だ。

ヤマ:「沢井さん,知ってた?手術の前日は剃毛だよ。」
沢井:「テーモー?」
センパイ:「剃る,毛って書いてテイモウ。看護婦用語だよね。」
沢井:「ああ,そういうこと。へえ,まあ,そうだろうね。」
マキ:「あそこの毛も剃るんだぜ。」
沢井:「え?うそでしょ。盲腸じゃあるまいし。」
ヤマ:「いやいや,ここではそうなの。ここの医長はね,感染すごく気にするから。あそこの毛とかやっぱり,汚いでしょ。」
ノロ:「オレも,やられたよ。な?」
カシラ:「そう,オレも。看護婦さんにさあ,浴室に連れてかれて。二人っきりだよ。チョー恥ずかしかったよ。」

「まあ!そうなの?」
沢井さんの奥さんは,心配そうだ。

センパイ:「カシラは塚田さんにやられたんだろ?まあ,あのオバさんならいいけどさ。オレなんかミキちゃんだったんだぜ,恥ずかしくってさあ。」
カシラ:「えー,ラッキーじゃん。おれもミキちゃんにやってもらいたかったなー,つーかやっぱエッちゃんがいいかな。」
カワ:「センパイ,起っちゃったんでしょ?」
センパイ:「そーなんですよ。ムスコは思うようにならないからねー。ミキちゃんに思いっきり指ではじかれちゃったよー。もー痛てーのなんのって」

ギャハハハと大笑い。
そんななか,沢井さんだけが,蒼白になっている。
沢井:「ウソだよねえ。ねえ,うそでしょ?」

沢井さん,たまらず,隣のベッドの太田さんに望みをかける。太田さんは40過ぎのおじさんだが,職場の同僚に誘われて,生まれて初めてスキーをして,あっという間にころんで足を折ったというかわいそうな人だ。
ところが,太田さんもすでに1週間前にワルガキ軍団の餌食になっていたのだ。自分だけが被害者になったんでは合わないと思ったのだろう。

沢井:「ね,太田さん。うそなんでしょ?」
太田:「ホントだよ。ホント。しょうがないよー。あきらめな。みんなやってるんだから。」

これで終るワルガキ軍団ではない。さらに追い討ちをかける。

ノロ:「ところで沢井さんは,やっぱ全身麻酔だよね。」
沢井:「さあ,聞いてないけど。どうなんだろう。」
カワ:「いや,プレート取るときは別だけど,普通くっつける手術は全身だよ。」
沢井:「そうか,全身かあ。」
カワ:「時間かかるでしょ?多分プレートでつなぐからね。こういう場合は全身だね。」
ノロ:「つーことは,あれか?」
カシラ:「だねー」
沢井:「え?何々?」
マキ:「あーあ,大変だ」
沢井:「何,何なの?」
カワ:「かんちょー」
沢井:「え?」
カシラ:「そうなんだよねー。浣腸するんだよ。手術の直前」
沢井:「ど,どうして?」
ノロ:「だって,手術中もれたらこまるっしょ?」
カワ:「うんこだらけになっちゃうもんねー」
沢井:「ええー!聞いてないよ。」

隣の太田さんも,完全にワルガキに同調していた。

太田:「あれ,つれえんだよなー」
沢井:「え,え,ど,どうして?どうしてですか太田さん?」
太田:「こーんなブットイやつ入れられてさあ」
マキ:「もう,入れられた瞬間からもれそうなのよ。」
カワ:「ところがね。浣腸って,ある程度我慢しないと効果ないんすよ。」
太田:「そーなんだよー。で1分ぐらい,看護婦さんにケツの穴,押さえつけられちゃって。」
沢井:「こ,ここでですか?」
太田:「そりゃそうだ。トイレでやったりしないよ。」
センパイ:「大変なのは,そこからだよー」
太田:「そんで,一分後ぐらいに,お解き放しだろ,そっから急いで立ち上がってよ,車椅子に乗ってさ」
カシラ:「それだって,踏ん張れないからねー,そーっと乗るんだよ」
太田:「でもう,必死にこぐわけだ。トイレに向ってね。」
沢井:「え,おまる用意してくれないんですか?」
ヤマ:「だめっすよ。車椅子で移動できる人にはおまる出してくれないよ。それにさ,すごい勢いで出るんだから。おまるじゃまずいよ。」
沢井:「そ,そうか。で,太田さんはそれで,大丈夫でした?」
太田:「からくもなあ,もう座るか座らないかでドバーっといったね。」
沢井:「時間にすると,どのぐらいだったんですか?」
太田:「そうさなー,お解き放しから5分持つかなあ。なあセンパイよう?」
センパイ:「いや,5分は無理っしょ。やっぱ3分ぐらいじゃないすか?ねえ,マキさん?」
マキ:「そうだねー,3分ってとこだよね。」
ヤマ:「オレね,じつは,計ったことあんの。いままでの最高が4分12秒だったかな。死ぬかと思ったよ。」
ノロ:「おめえは,やられすぎなんだよ。普通はやっぱ3分が限度だろ。」
沢井:「3分か。3分…..」
カシラ:「沢井さん,まだ車椅子の乗り降り慣れてないでしょ」
センパイ:「あ,そうか,そりゃやばいよ。練習しとかないと」

悲壮な覚悟で,沢井さんは奥さんを見つめる。

沢井:「めぐみ,時間計ってくれないか?」
奥さん:「うん」

ベッドに寝直す沢井さん。

奥さん:「じゃあ,いい?5,4,3,2,1,スタート」

ガバッと起き上がる沢井さん。まだ傷に響いているようで,痛そうに顔をゆがめる。

太田:「おいおいー,フリチンでトイレまで行くつもりかよ。」
沢井:「え?」
太田:「お解き放しになったときは,まだ丸出しなんだぜ。まずは丁字帯(いわゆる越中ふんどしですな)をつけて,パジャマのズボンをはく!」
沢井:「そ,そうか。めぐみ,やり直しだ」
奥さん:「はい」

再びベッドに横になる沢井さん。今度は布団をかけ,中でモゾモゾやっている。本当に脱いでいるようだ。

沢井:「オーケー,始めて」
奥さん:「じゃ行くわよ。5,4,3,2,1,スタート」

布団の中で,もぞもぞと身支度を整える沢井さん。動くとやはり痛むらしく,たびたび顔がゆがむ。

奥さん:「1分経過」

やっと布団をはいだところだった。
ここから,ベッドサイドの車椅子に乗り移る。ここが怪我したての人にはつらい。
乗り降りの要領を得ないのと,やはり,足を動かすことが苦痛なためだ。

まずはベッドのふちまで移動。ここですでに,かなり痛むようだ。

「う,うう」
苦痛に思わずうめく沢井さん。

奥さん:「1分30秒」

やっとの思いでベッドのふちにたどり着いた。

さて,まず,いい方の足を床に下し,立ち上がる。
これですぐに座れるわけではない。
慣れない沢井さん。どうやって怪我した足を下ろすか。どうやって車椅子に座れるところまで,立ち位置を移動するか,迷っている。

いろんなところに両腕をつっぱり,移動を試みる。
なんだかんだで,すでに2分をとっくに過ぎている。

移動のたびに痛むのだろう。ウグッとうめきつつ,徐々に体を車椅子の正面にもっていく。

今度は悪い方の足をかかえ,ゆっくりと持ち上げる。
そして,そーっと腰を下ろした。
悪い方の足は,高くセットしてある足載せにゆっくりと下ろしていく。
やっと,座った。車のブレーキを外す。

「3分!」奥さんが悲壮な表情で叫ぶ。
「だめだ,間に合わない」車椅子に身を沈め,うなだれる沢井さん。

あまりにもはまってしまって,ちょっと気の毒になってしまったワルガキ軍団。

太田さんも,フォローする。

太田:「ま,沢井さん,まだ時間あるし,練習すれば,早くなるって。心配すんなよ。」
沢井:「はあ…」

奥さんが涙ぐんでいた。

と,そこに看護婦さんがやってきた。

真相がばれないうちに,そそくさと解散するワルガキ軍団であった。

(続く)

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