約30年前,私はスキーで足を折った。この怪我の種類であるが,右下腿部の複雑骨折ということになる。病院や骨折に縁がない人のために補足しておく。複雑骨折とは,骨が複数に折れた(つまり複数の切片状になって折れた)ということではない。たとえ,骨が粉々にくだけても(これを粉砕骨折という),複雑骨折とは限らない。実際私の場合,下腿骨,正確には脛骨と腓骨という2本がきれいにポッキリと折れたが,これでも単純骨折ではなく,複雑骨折である。
複雑骨折とは,この折れた骨の部分が皮膚を破って外に出てしまった場合をいう。通常,整形外科医は,紛らわしいので,複雑骨折とは言わず,開放骨折という言葉を好んで使うようである。どちらも同じ意味で,とにかく,骨の切断部が一度でも外界に触れてしまったものが複雑骨折である。
なにしろ回りの肉を骨が突き破るわけだ。痛さという観点でいえば,開放骨折は,そうでない骨折よりずっと痛い。激痛とはまさにこのことだと思う。
そして,治療という意味でも開放骨折は非常にやっかいだ。外傷が伴わないなら,そのまま固定して着いたらおしまいという場合もあるし,必要ならすぐに手術ができる。
ところが開放骨折はそうはいかない。まずは,外傷が落ち着くまで,手術はお預けとなる。この間,抗生物質で炎症を防止するが,万一,外傷部から細菌が入り,骨髄に達して骨髄炎になると,これを治すのは大変な時間がかかる。もちろん,それまでは,骨を着ける治療なんてできない。感染部位の骨を除去し,他の部分(たとえば骨盤など)から骨を移植したりすることもあるし,最悪,切断なんてこともあるだろう。
一ノ瀬ファミリーの林間コースで事故った私は,スノーボートで,向いの一ノ瀬ダイヤモンドにある診療所に運び込まれた。そこの医師に,「傷口から細菌が入るかどうかで,君の右足の運命が決まる。」といわれて,背筋が凍ったことを覚えている。
ただ,雪の中にはほとんど細菌がいないから,スキーでの受傷は比較的きれいなはずだと慰められた。
道玄坂病院に搬送されたが,やはりすぐに手術はできず,まずは外傷の様子見となった。
最初の2-3日は医者も,「こりゃ当分手術は無理だな」といっていた。
主治医の鹿島先生(仮名)が時々来て,傷の様子をチェックしていた。いつもニヤニヤしているようだが,もともとがこういう顔つきのようで,ほとんどそれ以外の表情をしない人だった。そのニヤニヤ顔で,ときどき残酷なことを平気でやる。
一度など,傷口にピンセットを突っ込んで,何をしようとしたのか,とにかく,何かをゴリっとこじったようだった。久々の激痛。思わず,「ギャ!」と叫んでしまった。
「お,痛てえか?」
何すんだよ!そりゃ痛てえよ!でも,痛いというのは,そこが生きている証拠だ。これが痛くなかったら,やばいということなのだろう。
その後も,鹿島はチェックのたびに,あまりいい顔をしなかったり,首を傾げたりしているので,一時はどうなることかと心配した。
それからさらに2-3日後の回診,チェックに来た別の医師が,傷口のガーゼをめくりあげるなり,
「オッ!?」
といって興味深かげにしばし観察。そして
「こりゃ期待できそうだぞ」
といって去っていった。
手術するか否かといった重要案件は,週に一度の医長回診で決定される。いわゆる大名行列である。
整形外科医長は,スキーなどの骨折はお手の物,近年マイクロサージェリーの分野でもかなりの権威になっている,秦野先生(仮名)だった。
次の医長回診のとき,医長が傷を見ながら,担当医の所見を求めた。
その「期待できそうだ」といった井田医師(仮名)は,なかなか精悍な顔をしており,コワモテで,いつも患者を脅すように診察する医者なのだが,医長回診となると猫のようにおとなしくなり,あたりも柔らかに,
「はい,外傷は数日前からだいぶ落ち着いてきてまして,これなら来週あたり手術可能かと思います。」
と報告した。医長がうなずいた。
すなわちここに,来週手術というスケジュールが決定したのである。
まだそのころは,ワルガキ軍団は結成されておらず,テイモーだのカンチョウーだのと脅かされることもなかった。
私は小学生のころ,やはり右足に大怪我をしており,手術は経験済み。特に心配はなかった。
手術は全身麻酔で行われた。
「はいこれ,酸素ですからね」
といってマスクをつけられた。嘘つけ!麻酔なんだろ。知ってるよ。
「はい,おおきく息を吸ってー」
はいはい,吸いますよ。
ほのかにシンナーのような臭いがしている。これだなーと思っていた。
やがて,といっても十秒もたたないうちだが,回りでしゃべっている声にエコーがかかりだす。
「はいこれ,そっちにやってってってってってってってってって」
「りょうかいですですですですですですです」
「こっちはかんりょうりょうりょうりょうりょうりょうりょうりょう」
何だ?何だ?
やがてこのエコーの部分が頭の中で反射しているかのようになる。
「シュバシュバシュバシュバシュバシュバシュバシュバシュバシュバシュバシュバシュバシュバ」
「ビュルビュルビュルビュルビュルビュルビュルビュルビュルビュルビュルビュルビュルビュル」
おー来たきた~!
そしてこの反射するスピードがどんどん速くなる
「びゅるるるるるるるるるるるるるるる」
「びゅるるるるるるるるるるる」
「びゅるるるびゅるるるびゅるるるびゅるるる」
これが頭の中で渦巻いて
「びゅるびゅるびゅるびゅるびゅるびゅる」
「びゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅびゅ」
「びゅリリリリリリリリリリーーーーー」
となったあと,何も覚えていない。
手術は,患部を開け骨を元の位置に戻す。
骨が完全に分断されている,つまりポッキリ折れており,かつこれが,外に出たりすると,回りの筋肉の力で,折れた部分の骨上下がすれ違いになってしまう。
これを3人だか4人係りで両側から引っ張って,元に戻したんだそうだ。
そして,折れた部分にステンレス製のプレートを当て,ネジで骨に固定する。
プレートは長さ15cm,幅3cm,厚さ3mm程度。両端に二つずつ計4箇所ネジ穴があり,そこにセルフカービング(自分で穴をあけつつ食い込んでいく)スクリューをねじ込んでいく。
整形外科の手術は,ほとんど大工仕事である。
ちなみに,この処置は,下腿骨の太い方,脛骨にのみ行われ,細い方,腓骨は折れたまま,ほったらかしである。
細い方はなくてもいいんだそうな。荒っぽいねー。
数時間後,麻酔からさめる。看護婦さんにかるくほっぺたをはたかれ,蘇生する。
私が処方された麻酔は,蘇生すると,基本的にすべてがスイッチが入ったように起きてしまい。結果として,起きてすぐ,患部の激痛にうめくことになる。
火箸が中に入っているような,ギブスがものすごくきつくまいてあるような,もうこらえようがない痛さだった。
はじめは,何で俺はここにいるんだ。この痛さは何なんだと,理解できないまま,うめき続ける。手術を境に,病室も移動させられたから,なおさら訳が分からなかった。そのうち事態が飲み込めてきて,ああ,手術が終わったんだと悟る。
「い,い,いてえよー,いてえ,いてえー」
叫ばずにはいられない。
当時は,痛み止めは極力使わないというのが大方針だった。
日本では,今でもそうかもしれないが,オーストラリアの医療と正反対だ。
こちらでは,痛み止めでなるべく苦痛を取り除き,そのかわりにいち早くリハビリを始めるという主義だ。
で,当時のことだから,医者も看護婦も口を揃えて。
「我慢できる?できるなら,我慢しなさい。どうしてもダメだったら薬だすからね。」
とこうである。
夕食は食べるどころではない。痛いのだ。
それなのに消灯時間があっというまに来てしまった。もう寝るの?いやだ。痛くて無理だ。
仕方が無いので飲み薬の痛み止めをもらった。
しかし,こんな中途半端では効かない。とにかく眠るどころではない。
人がいるうちは,痛いながらも,話をしたりして,気が紛れたが,今は痛みに神経が集中してしまう。
ただただ「痛い痛い痛い痛い」と心の中で思っているのだ。
3時すぎぐらいだったか,遂にナースコールのボタンを押した。
「すみません,やっぱり痛くてだめです。」
「じゃあ,どうする,座薬入れる?」
「はあ,….」
「じゃあ,そうしましょう。ちょっと待ってて,取ってくるから。」
やがて看護婦さんが戻ってきた。
「はい,おシリ出して!」
私は横になり,看護婦さんの方に尻を向けてパジャマと丁字体を外した。
看護婦さんは,慣れた手つきで,私のおシリを覗き込むと,グサーっと座薬を押し込んだ。
なんだか,情けなかった。
その後も結局痛みが劇的に引くことはなく,朝方ちょっとまどろむだけで,ほとんど眠れなかった。
夜が白みだしてきたとき,早く朝になってくれと願った。
こんなに朝が待ち遠しかったことはない。
これで悟ったことがある。
どんなに苦しくても,どんなに辛くても,日はまた昇る。